黒川伊保子著 【夫のトリセツ】のレビュー記事です。
全体の感想まとめ
・人間は動物であり、生殖(生存と繁殖)のために動いている脳の違いが男女間で明確に存在する
・男女のミゾを作るのはその他に「脳のチューニング」の違いである。機能としてはどちらも同じものを持っているが、チューニングが異なるので普段の「反応」が異なるということを知っておく必要がある
・夫が動いてくれないのはやる気がないからではなく、妻の所作を認知できていないからである
・著者の主張は「女性に共感しなさい」ではなく「女性脳は共感がないとうまく動かない。さて、あなたはどうする?」である
「妻のトリセツ」に続く第二弾、その夫バージョンです。
ということは当たり前の話、妻にあたる立場の人に向けての本。
内容としては「夫(男性脳)とは、こういうものなのですよ」という説明をしている本なのですが、妻のトリセツ同様に、夫の立場でも十分面白く読むことができました。
主に男女の脳の違いについて解説し、夫婦間で起こりがちな問題について、その解決方法や、うまいことやり過ごす術を教えてくれる本、という感じです。
この手の本は大体読むと自分の未熟さに気が付かされることが多いですが、奥様の「声にならない声」を「察する」ことができて、かつそれを配慮した行動ができるように成長していきたいものだなあと思います。
レビュー詳細
同じ黒川伊保子さんのベストセラー「妻のトリセツ」では、男性脳と女性脳の違いから生まれる夫婦間の問題を「知識として持っておく」ことでお互いを理解し、違いがあるのだということを認識した上で「じゃあ、どうしたらいいのか」ということを書いてある本でした。
本書「夫のトリセツ」もまた、男性と女性の脳の違いを「チューニング」という言葉で表現しています。
本のテーマは「なぜ夫は、妻を地獄に落とすのか。どうしたら、家庭を天国にしておけるのか」。
妻を地獄に落とすのは、多くの場合、夫ではない。
妻の脳の生殖戦略なのである。
女性脳の生殖戦略は、意外に残酷だ。
(Kindle版より引用 位置No.125~)
人間は動物であり、生殖(生存と繁殖)という、抗うことのできない「本能」というやつが存在します。
男性と女性では役割が違うので、本能のおもむくままに行動するとどうなるか、ということをまず知っておいたらいいのでしょう。
子を持った妻は、子を守り、子の生存確率を上げるために、夫に対して「労力、意識、時間、お金など全てのもの」を提供して欲しいという本能に駆られます。
母性、それはすなわち「子どもを育て抜くための生き残り戦略」なので、大人の男に対しては苛立ったり厳しくなったりする、と。
この本では直接触れられてはいませんが、愛情ホルモンと呼ばれる「オキシトシン」がそのような働きをしています。ざっくり言えば、味方と判断したものには愛情を感じるが、自分や子を脅かす存在には敵意を向けるようになる、ということです。
男女の脳は違うのか?という問いは「違う」も「違わない」も正解で、「違う」と言った場合には脳のチューニングの違いを指し、「違わない」と言った場合には脳全体の機能の違いがない、ということを指します。
どちらも同じ機能を持って生まれてくる(本文中の言葉を借りるなら「全機能搭載」)が、チューニングが違うので普段から繰り返されて反射的に行われるような行動には違いが出る、と。
男女とも、同じ脳を持ち、全機能搭載可能で生まれてくる。そういう意味では、男女の脳は違わない。
しかし、チューニングが違うのである。
同じラジオでも、チューニングした周波数が違えば、片方は哲学を語り、片方はおしゃれなボサノバを流してくる。男女の脳はそれに似ている。
(Kindle版より引用 位置No.182〜)
・男性脳は、狩りに出ていた時代からの必要性で「遠くを見て」「問題点を指摘し、解決する」「ゴールへ急ぐ」がチューニングされている。
・女性脳は、「近くを見て」「とっさに共感し合う」がチューニングされている。
これだけとっても、何も知らない状態だったらそりゃぶつからないはずがないってなもんです。
そしてさらに、男性脳女性脳はそれぞれのチューニングなので、たまには逆になっていたりもします。よくあると指摘されているのが「女性が、子供に接する時」。この場合は結構男性的な問題解決脳になっている、というのは内容としてはよく聞く話で、「勉強したの?」「宿題やったの?」とかそんな感じのことを、すぐに聞いてしまいがちである、と。それは夫が妻に言う地雷な一言「ご飯まだ?」とか、そういうのと同じである、と。言われると確かに・・・と思ったりしますよね。
つまりこの時大事なのは、男性と女性の違いを認識すること、というよりはもう少し広い視点で「自分、もしくは相手のチューニングがどの状態なのか知ること」そしてそこからわかる適切な対応を取ること、ではないかと思うのです。
恋人時代には、あんなに気持ちに寄り添ってくれていた男が、夫になり、父になり、責任をひしひしと感じているからこと、冷たい口を利く。一方、妻となったほうは、子どもの生存可能性を上げるために、夫に恋人時代よりいっそう共感を求めている。これこそが夫婦のミゾ、「夫はひどい」の正体なのである。どちらも、誠実に、生きるべき道を貫いている。それなのに。
(Kindle版より引用 位置No.232〜)
これが分かっていればこそ、お互い歩み寄る事もできるのではないかという事ですね。全部は許せなくても、半分くらいは許せるようになる、と。「妻のトリセツ」で言うところの「妻から放たれる弾丸を10発から5発に」というのは、このあたりを知ることで近づいていくものなのではないかと思います。
しかし、問題解決を先んじてしまうといういわゆる「男性脳」の問題が、こと子育てにおいては女性にも現れるという現実は、子供に対しての接し方でも意識しておくといいことがあるんではないかなあと思います。特に子供が4〜5歳とか、「自分でわからないことを調べる」ということを知らない内は、ほとんど全ての情報源が親になるわけで、その時に「◯◯ってなあに?」「◯◯が△△なのはなんで?」とか、なぜそんなことに興味を持つのかさっぱりわからないという質問をものすごい球数投げてきたとしても、大事なのは(疑問の正しい答えを出すことではなくて)そこに共感してあげること、「そうか、◯◯が不思議だと思ったんだね」とかそういう会話を楽しむことなんだろうと思いました。
大人としてはかなり面倒くさいけど、これをうるさがると、子どもは会話をやめてしまう。答えようのない質問は、答えを言わなくていい。質問自体を喜んであげればいいのだ。「面白いところに気がついたね。実は、ママも答えを知らないんだ。いつかわかったら、教えてね」と言ってあげればいい。
(Kindle版より引用 位置No.312〜)
というようなことを考えていたら、そのものズバリな記述がありました。やっぱそうだよなあー。数年前に何冊か読んだ子育て本でも、同じようなことが書いてあったような気がしますし、コーチングやらマネジメントやらビジネスに関係する本にも似たようなことがいっぱいありますよね。いわゆる「認める」(レコグニション、アクノレッジメント)というやつでしょうか。
そしてこの問題解決脳は、ビジネス的には「男性の上司には、結論からバシッと言ってやった方がいい(逆に、そうしないと効果がない)」的なところで使われたりしますね。著者も過去の自分の体験について、この本で述べています。
それから「夫が家事を手伝ってくれない」問題について。
夫は気が利かない。妻が「見ればわかるでしょ」と思うことを、やってはくれない。
それは、やる気がないからではなく、妻の所作についてうまく認知できていないからである、ということです。
つまり、夫の脳では、妻の所作が網膜に入るが、風景のように見流しているのである。目の前にいて、妻がおむつを替えている風景を眺めていても、「子どもがごろんとなったから、お尻拭きに手が届かないで、妻が困っている」というようには認知できない。
(Kindle版より引用 位置No.653〜)
いやー、読みながら「これ、同じ状況になったら多分オレ気づけないな・・・」と思いました。
子供のオムツ替えはやりますが、例えば妻がやっているのを見たとき、上の文章と同じ状況になっていたらきっとそれには気がつけない。
例えばこの「妻のオムツ替えを夫が見ている」という状況の時、もし台所の味噌汁にIHのスイッチが入りっぱなしであるとかそういうことがあったら、奥様的には「オムツ替えをぼーっと見てないで味噌汁の鍋をどうにかしなさい」ということになるわけだけど、自分はきっとそれに気が付かない。
前作「妻のトリセツ」では、ゴミ捨てを具体的な例として「名もなき家事」問題に言及している部分がありましたが、夫の頭の中では全体の家事の総量が見えていないので(=認知できていないので)、分担している家事の量が割合上多く感じやすいという現象が起こるんですね。
「オレ、すごい家事やってるよ」「は?あんたがやってる家事なんか、全体のほんのちょっとでしかないから」みたいなやつね。それが自分の認知力不足ゆえであることがわかったら、自分の認知できていない家事にどのようなものがあるかを知って、それをやろうとする努力、というやつができるのではないかと思います。
第3章では「ひどい夫を『優しい夫』に変える方法」というタイトルで、夫婦間のコミュニケーションについての話が続きます。
・「邪悪な脳」=他人を貶めることで、自分の存在価値を確認する人、というのは存在する。いわゆる「根っからの意地悪」。
・脳はインタラクション(相互作用)に興奮するように作られているので、ネガティブなそれを快感に思う人もいる。
・そういったネガティブインタラクションとの付き合い方は「そういうものである」と認知し、取り扱い方を研究することである。
・わかり合うこと、豊かな会話、優しい会話を求めず、日々を無事にやり過ごすことを主眼に考える。どちらが正しいかで議論すると悲惨な結果になる。
このあたり、確かにまあ、頷ける部分はあります。誰もが自分(の価値観)が正しいと思っているという側面があるし、それのどちらが正しいかを議論することにあまり意味はなくて、「ああ、あなたはそういう考えなのね」とどれだけ認めることができるかが、うまくやり過ごす極意であるように感じます。
ただそれには、自分は「自己肯定感があること」が必要な条件として挙げられるかと思います。自分が自分を認められていないと、なかなか自分と違う価値観のことを「認める」という感覚には至れないものだなあ、というのを感じます。
それでも、どうしても説得したいときは、相手の欠点を指摘する論法は避けること。「あなたの意見は、ここがダメ」とはけっして言ってはいけない。
(Kindle版より引用 位置No.748〜)
おそらく、このタイプの人の脳は、否定されることに過敏なのではないだろうか。負けることを恐れている。
(Kindle版より引用 位置No.755〜)
本の中では「ネガティブインタラクションな人との付き合い方」として書かれているこの記述は、誰に対しても言えることかなと思いますね。特に否定されると(正確には「否定されていると感じると」)、それによって自分の価値が下がっているような気がして、自分を守るために自分の正当性を主張してしまう、というようなことがよくあるだろうと思います。
第3章の終盤は妻は夫に「あなたがいなきゃ、生きていけない」を出せばいいのではないか、ということが語られています。
人間の脳はインタラクションに興奮するように作られているので、自分の存在や行動が影響を与えない=自分がいてもいなくても関係ない=自分がいなくても生きていける、という存在を、愛し抜くことができない、と。
この本は「夫のトリセツ」つまり妻向けの本なので「妻→夫」という方向での記述になっていますが、実際これもお互い様だよなあと。夫→妻の方向でも、お互いの弱みを見せて頼り合って相互補完できること、という状態があったら、とても素敵だなあと思いますよね。
第4章では、「男性脳は、女性脳に必要な「共感」が欠ける」という視点が、疾患として現れているものとして「アスペルガー症候群」と「カサンドラ症候群」が挙げられています。
アスペルガー症候群は発達障害の一種とされ、共感能力がひたすらに低いので、つまりアスペルガーの夫を持つと「共感してくれない」が多発することになます。これが続くと、慢性の強い疲労感や不眠、偏頭痛などの強いストレス症状を呈することがあって、総称して「カサンドラ症候群」と呼ぶ、と。
アスペルガー症候群の人は一見すると「ちょっと変わった人」くらいになる人も多いので、妻が「共感されない」ことに対するストレスを訴えても「あなたの努力が足りないのでは?」とか、さらにそこに共感を得られない反応になることがあったりするというのも、問題視されたりしますね。アスペルガーとカサンドラの場合は完全に「アスペルガー症候群の夫」「カサンドラ症候群の妻」という関係なのでしょうが、自分の考えや思いに共感してもらえない世界というのを想像したら、それは確かに厳しい世界だなあと思います。
と、そう思うなら、相手に共感できる人を目指したいものです。
認識傾向の違う脳が共に生きるというのは、なかなかに厄介だ。片方が「当然、返ってくるはず」と想像することばを、もう片方は持ちえない。それどころか、「ありえない」ということばを、親切のつもりで言ってしまう。
(Kindle版より引用 位置No.1195〜)
相手の認識傾向が違って、何を考えているか、何を求めているかがわからない(ことがある)からこそ面白いのだという視点をどこまで持てるかが、お互いを思い合って寄り添って生きていくということを「楽しむ」のに必要な視点なのかな、と思いました。
とりあえず妻と子供のためにできることをやっていこう、と思い直すことができるのは「妻のトリセツ」と同様でした。知ることだけでなく、それを活かすことができるような生き方をしていきたいなと思います。